翌日。
珠紀たちが学校へ行ってしまい、ひとりになったは神社の境内にいた。
この『玉依毘売神社』は宇賀谷の家が代々守っていて、玉依姫命が祀られているらしい。
そんな神聖なところに、玉依姫の偽物のような自分がいていいのだろうかと、少し挙動不審に動き回る。
それでも神聖で、なんというか、綺麗な空気の心地良さにつられて、すぐにいつも通り歩き出した。
「この辺で、いいかな」
そう言って、境内のちょうど中央当たりでは勾玉を取り出した。
『赫の破片』、そして『三魂』。
『赫の破片』が持つ力はもう完全に自分のものになっていたが、『三魂』は勝手が違う。元々、この石たちの主は自分ではないのだ。
「まずは、『翠』から…」
紐から翡翠色の小さな勾玉を外す。
少し霊力を注ぐと、それはすぐに掌を離れ宙に浮いた。
「その武を示せ。我が声に応え、我に降りよ。我は赤留姫命、陽(ひ)に仕える者なり」
ゆっくりと呟く。勾玉に眠るカミの力に語りかけるように。
次第に宙に浮いていた勾玉から光が漏れ始め、閃光が空高く突き抜ける。
そしてそれは上空で折り返し、勢いよくに降り注ぎ始めた。
「くぅ…」
急激な霊圧が体に注がれ、体中が軋む。
耐えなければ。
力を得ないと、少しでも力を…!
は注がれる霊力を少しずつ、でも確実に、自分の霊力に溶け込ませていく。
そんな力の変換を繰り返し続けていると、不意に頭の中で声が聞こえた。
『我はヤタガラス・クウソノミコト。我が力、暫しそなたに預けよう』
ぽとりと勾玉が掌に落ちる。
「ありがとう、クウソノミコト」
乱れる息を整えながら、は勾玉を握り締めた。

「ふーん、さすが力のある姫巫女だ。自分の奉るカミ以外も降ろせるのか」
背後から声がして、勢いよく振り返る。
そこには、スーツ姿の男性が立っていた。
不精髭を生やし、くたびれたスーツを着てはいるが、眼鏡の向こうから物珍しそうにこちらを覗く目は、そんな風貌からは予想できないような、策略家の目だ。
「どなた、ですか?」
「そんなに警戒しないでくれよ、ただの国家公務員さ、ただのね」
そう言って男は煎餅を一枚取り出し、おもむろに齧る。
「そうは、見えませんけど。神降ろしの『見える』国家公務員なんて、余計怪しいですよ?」
男はそれを聞いてくっくっと笑うと、また煎餅を一口齧った。
「いやー、参った参った。自分も余所者なのに、嫌に警戒心が強いんだな。君の方がよっぽど利口なようだね、赤留姫」
赤留姫、という言葉にはさらに顔を顰める。
「国家公務員などが、なぜ私を知っているの。あなた、何?」
思わず語気が荒くなる。赤留姫として、この男の前で威厳を損なうわけにはいかないと、胸がざわついた。
「そう怖い顔をしないでくれよ、こっちも急に色々と突きつけられて参ってるんだ。そのうち、また会うだろう」
じゃ、とひらひら手を振って、男は引き返して行った。
「…」
暫くその背中を睨みつけていたは、男が完全に去ったのがわかると再び勾玉を手にした。
なんだろう、あの男は。あのざらついた視線と物言いが、とてつもなく気に食わない。
もやもやとした気持ちに首を振り、はカミたちを降ろすことに無理矢理集中した。





辺りはいつの間にか夕暮れに染まりつつあった。
はあれからなんとか三柱のカミを降ろすのに成功し、その力を自分に預けてもらった。
体力はだいぶと言っていいほど削られたが、それでも後のことを考えれば安いものだ。
「印(いん)」
そう唱えると、地面に光の輪が現れる。
「流(りゅう)!」
の声に応えるかのように、光の輪から水流のような霊気の波が噴き出す。
「颯(そう)」
続けざまに唱えると、旋風風がの周りに吹き荒れ。
「斬(ざん)」
の手の動きに合わせて、風の刃が吹き飛んでゆく。
「…うん、なんとか扱えるようになってきたかな」
掌を握って大きく頷く。全部を使いこなすのには少し時間がかかりそうだったが、それでもだいぶものには出来た筈だ。
そろそろ家に入ろうかと振り返ると、そこには知らないうちに美鶴が立っていた。
「美鶴さん、どうしたの?」
「程なく日が落ちそうでしたので、お迎えに参りました。夕暮れは冷えますので…」
美鶴はこれを、と大判のショールをに差し出した。薄い紫の、上品なものだ。
「ごめんね、ありがとう。美鶴さんはいいお嫁さんになるね」
笑いながらが言うと、そんな…と美鶴は俯いてしまった。

様、あまり…ご無理をなさらないでくださいね」
家に向かう途中、少し伏し目がちに美鶴が言った。
「一度にあんなにカミを降ろしたら…お身体が持ちません」
そう言ってを見るその目は、悲しい色に染まっていた。
「ありがとうね、でも大丈夫だよ?少しでも力になりたいし、邪魔者は早く追い払っちゃえた方がいいでしょ」
あんまり力になれないかもだけど、と付け加えて、は笑って見せた。
「早く、終わりにした方がいいんだよ。因習を遺すようなものは…そのせいで、辛い思いをする人が必ずいるんだから」
そうがぽつりと呟いた言葉に、美鶴が足を止めた。
振り返ると、なんだか泣き出してしまいそうな美鶴がを見つめている。
言っちゃいけないこと、言ったかな。
なぜだかそんな風に思えて謝ろうとしたとき、先に口を開いたのは美鶴だった。
「ありがとう、ございます」
美鶴は微笑んでいた。泣きそうな顔のまま。
にはその表情の意味はわからなかったが、その笑顔は夕映えに染められて一層奇麗で。
ただ微笑み返した。何を言葉にするよりも、そうした方がいいと思ったから。









どうしてこんなことになっているのだろう。
う〜、と変な唸り声を上げて自分の腕にしなだれかかる珠紀の頭を撫でながら、は目の前に座る少年たちを見ていた。
家に入って程なく、珠紀の声が聞こえてきて玄関に向かった。
するとおかえりという間もなく珠紀が飛びついてきて、その後ろから拓磨と真弘が上がってきた。
「おう、今日から世話んなるぜ」
「うす、まぁ、頼んます」
そんなことを口々に言うと先に奥へと入っていってしまい、は何が何だかわからないまま、打ちひしがれる珠紀を連れ居間へと戻ったのだ。
「で、つまりお泊りするわけなのね?暫く」
「そういうことっスね」
至極穏やかに拓磨が言う。受け入れているというより、なんか投げやりな感じだ。
どうやら玉依姫の身辺警護強化部隊にこの二人が選ばれて、四六時中一緒にいることになったらしい。
「別にそれくらいいいじゃない、珠紀。余所の人がいると落ち着かないっていうなら、私なんか余所者中の余所者なんだけど…」
覗き込んで言えば、珠紀はぶんぶんと音がしそうなくらい首を振った。
さんは違うの!っていうか、余所の人がとかそういうんじゃなくて…とにかく違うの!」
「そ、そう…」
あまりの剣幕に圧し負ける。おおよそ見当は付くが、そんなに緊張するものなのだろうか。
朝、美鶴の機嫌がよかったのはこれだったのかな、とは思って、つい微笑む。
「なんで笑うのー!」
「ごめんごめん。若いって素敵ねー、お姉さん羨ましいわ」
「お前いっこしか変わんないだろうが…」
そんなやり取りを続けながら、押収が付かないまま夕食になる。
相変わらず項垂れていた珠紀も夕飯を見ると機嫌が直ったようだった。
それにしても、豪華だな…これ…
資産家の宴会か!と突っ込みたくなるような料理の数々に、は思わず息を呑んだ。思えば自分は暫くお粥や果物しか食べていなかったし、ちゃんとしたこの家の食事を見たことがなかった。
「い、いつもこんな…なんというか、豪勢なの…?」
小さな声で珠紀に尋ねると、軽く頭を振る。
「ううん。美味しいのは変わらないけど、いつもはもう少し質素だよ?」
「そう、よね。いくらなんでもこんな…」
「さぁ皆さん、どんどん召し上がってくださいね」
そう言って美鶴が新たな料理を運んでくる。
(えええ、まだ続きが……尾頭付きー!!!)
鯛の尾頭付きが乗った大皿を置く机に美鶴は、そんなの心の叫びを知ってか知らずか、輝かんばかりの微笑みを浮かべた。
拓磨は黙々と食べ続け、真弘は文字通り食い散らかしている。
珠紀は多少驚いてはいたようだが、さして気にしていないらしい。
どうなってるんだ…
あまりの光景に、中々箸の進まないだった。





「ふぅ…」
ひとつ溜息を吐いて、は湯の中を扇ぐ。
なんやかんやで疲れた夕食も終わり、珠紀は自室に、拓磨と真弘は用意された客間に戻っていた。
も部屋へ戻ったのだが、お風呂が沸いていると美鶴が声をかけに来たので先に頂くことにしたのだ。
「久しぶりだなぁ、こんなに賑やかなの…」
夕食のことを思い出して、温かい気持ちになる。小さな頃は珍しくもなかったが、『嫁ぐ』のが近付くにつれ笑い合いながらの食事はおろか、会話も少なくなっていった。
村は、どうなったのだろう。オニガミ様に、壊されてしまったのだろうか。
みんなは…家族や、友達や…大切な守人たちは、どうしただろうか。
連れて行かれてしまった?本当に、もうこの世にはいないのだろうか…
湯船に顔を半分くらいまで沈めて、ぼんやりとそんなことを考える。考えても仕方のないことだとわかってはいたが。
そんな考えを振り切るように、は湯船に頭まで沈めた。お湯の中で、脈打つ音だけが聞こえる。
自分は、生きている。大切な人たちに生かされた。そして今は、生きろと言ってくれる人たちが傍にいる。
前に進まなくちゃいけない、やるべきことをやろう。今、自分に出来得る、最上のことを。
は小さく頷いて、湯船から頭を出した。
しかしその瞬間、何か別のものが湯船に入ってきて、思いっきりお湯が外に流れていく。
慌てて顔から水滴を拭うと、風呂場に差し込む月明かりでかすかにその姿が浮かび上がる。
「まひ、ろ?」
「…は…、え?」
自分の向かいで湯に浸かるそのシルエット、そして思わず漏れたような声は、紛れもなく真弘のものだった。
「お前…いつから入ってた?電気、付いてなかったぞ…」
呆然としているからなのか、潔く現状を認めたのか、真弘は静かな声で冷静に言う。
「…結構前から?月が綺麗だったし、付けないで入ってたから…」
ぱちゃん、との髪の毛から水滴が滴り落ちる。
長い、沈黙が流れる。何か言おうかと思ったが何も浮かばず、出ようにもタオルすらない。
美鶴の入れた入浴剤のおかげで、湯が緑の乳白色をしていることだけが救いだった。
「綺麗だな」
「え?」
急にかけられた声に顔を上げると、真弘は天窓から覗く月を見上げている。
「…うん」
同じように見上げると、半月が少し膨れたような月が静かに輝いていた。
「赤留姫命ってさ、太陽の神を奉る巫女姫なの」
呟くようにが口を開く。
「でも私の生まれた村は西のはずれの村で、沈む太陽にしか祈りを奉げられないから。せめて次の陽がちゃんと昇るために、月が騒がず凪ぐようにって、私の名前は、そういう意味なの」
真弘は月を見上げたまま、でもその首が相槌のように小さく頷くのを横目に、は続けた。
「小さな頃は嫌いだった。生まれたその日から十八で死ぬのが決まっていて、名前までそんな理由で付けられたら、もうどこにも救いがないような気がしてた。だけど…」
ぽちゃんと、天井からの水滴が湯船に落ちて緩く波紋を作る。
「こんな風に誰かと見る月が、凪いでいる方が綺麗なら…よかったな、って、今は思うよ」
水滴が波紋を作った辺りをそっと指で撫ぜる。小さな波が、湯船の端に当たって消えた。
状況としてはあんまりな展開だ。会って間もない、しかも異性と一緒に湯船に浸かっている。
でも嫌な感じはしないし、出ようにもどう切り出していいのかわからない。だからはぼんやりしている真弘に倣って、月を見上げている。
「綺麗だ」
真弘がまた呟く。独り言のようなその声音に、思わず微笑んでしまう。
でも確かに空気が透き通るような空で。そこに浮かぶ月は形はいびつでも、じんとするほど綺麗だった。
「うん、綺麗だね」
「月じゃない」
聞き返す間もなく、唇が重なる。
項の辺りに真弘の手がそっと添えられて、ぴくりと体が動いた。
それに合わせるようにを引き寄せると、真弘は口づけながら唇の縁に舌を這わせた。
「ふ…っ…」
体が触れる。触れ合った素肌は白々しいほどに熱く、その胸板は、思っていたよりずっと「男性」のものだった。
真弘のその舌に促されるまま口を開ける。
最初は控えめに、しかし次第に激しく、の舌は真弘のそれに絡めとられ。ちゅ、ちゅく、と、いつか交わしたキスとは違う、卑猥な音が風呂場に響く。
…」
途中何度か離れる唇からは、自分の名を呼ぶ、切なげな声が漏れる。
頭の芯の方が、またじんわりと熱くなるような感覚に襲われ、自分を呼ぶ真弘の声だけが耳に届く。
そして一層激しく真弘の舌が口内を暴れ回ると、不意に唇が離された。
「ま、ひろ…?」
乱れた呼吸を整え、ぼんやりした頭でその名を呼ぶと、真弘はを離しふいと反対を向いた。
「…真弘?」
「お前、今のうちに出ろ。こっち向いててやるから」
その意図がわからず、暫くその背中を見つめていると、真弘は頭をがしがしと掻きながら溜息を吐いた。
「悪い、これ以上は、我慢してやれそうにない。だから、早く出ろ」
そう言って、はー、と、もう一度盛大に溜息を吐く。もしかした深呼吸なのかもしれないが。
「ん、わかった」
は短く返事をして湯船から上がる。カラリと戸と開けて振り返ると、真弘はさっきのようにまた天窓を見上げていた。
「真弘」
その背中に声をかける。月明かりに照らされる姿が、なんだか無性に愛おしかった。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに返事を返す真弘に苦笑して、戸を閉めながら置き捨てる。
「据え膳食わねば、なんとやら、だね」
戸が閉まりきる瞬間、中から「うるせーぞ!」と怒鳴る声が聞こえたが気にしなかった。
煩いくらいに高鳴る鼓動と温もりの残る体に、は暫く微笑んでいた。



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