気が付くと、いつの間にか部屋の中にいた。
ぼんやりとした視界がだんだんと開けていく。見えてくる部屋の様子や肌に感じる空気から、すぐに宇賀谷邸だとわかる。
体がとても重たく感じられて、もう一度目を閉じようとしたとき、部屋の中に気配を感じた。
「…誰…?」
薄く口を開いてなんとか絞り出すと、視界に、にゅっと人影が入ってくる。
「おう、起きたか。俺だ、俺。真弘だ」
そう言って真弘はを覗き込んだままニッと笑った。
「体、どうだ?」
「少し重いけど、大したことないかな。鴉取君のおかげ」
「真弘、だ。鴉取君はよせ、なんかこそばゆい」
飄々と答える真弘に、も自然に笑みが零れる。
「拓磨がな、すまなかったってよ、お前に。あいつはバカ正直なんだ、思ったことを極端に言い過ぎる」
「うん、大丈夫。もう気にしてないよ」
そうか、と言って、真弘は小さく息を吐く。
その目は、いつかの夜よりももっと揺らめいている。
きっと気のせいなんかじゃないんだろう、とは思った。
もそもそと布団の中の手を動かし、そっと、胡坐の上に乗っていた真弘の手に触れようとする。
「…おわ!なんだ、どうした?」
少し触れそうになったところでそれに気付いた真弘が大げさな声を上げた。
「手、握ってあげようと思って…」
「なんだ急に」
「何か、思い悩んだ顔してる」
そこまで言うと、真弘はじ、とを見た。その目は真剣で、やっぱり何かあったのだとは確信する。
「…大蛇さんから、どこまで聞いてる」
布団の外にぱたりと落ちているの手を拾い上げ、両手でそっと握りながら、真弘が言った。
きっと、ロゴスとかいう組織と、何かあったんだ。は記憶を探り探り答える。
「鬼切丸を、ロゴスっていう組織が狙っていて…その、封印を補助する宝具が、もう二つ奪われてしまっていて…」
「その法具、な。三つ目が奪われた、ついさっきだ」
え?と問い返すことは出来なかった。の目には、悲しげな真弘の姿が飛び込んできたから。
「何も、出来なかったよ。珠紀も何もするなって言ってたけどな」
でも、と真弘は続ける。その姿は、まるで夜に怯える仔猫のようで。
「何もしなかったんじゃない。何も、出来なかったんだ、俺は」
そう話す真弘の声は、微かに震えていた。
その翡翠色の瞳は、今にも泣き出してしまうのではと思うくらい揺れていて。
はいてもたってもいられず、自分の手を握っている真弘の手を、思いっきり、引っ張った。
「ぬおわっ!?」
思惑通り、真弘は自分の方へ倒れ込んだ。妙な奇声を上げてはいたが。
そしてそのまま、体勢を立て直せていない真弘をぎゅうと抱きしめる。
「お前!何して…コラ」
真弘は腕の中で抗議の声を上げているが、は気にも留めない。
もっと大切なことを、拙い言葉にこの温もりを加えて、真弘に伝えたいと思っていたから。
「真弘の弱虫」
「何ぃ?!」
「真弘のバカ、いくじなし、ヘタレ、小学生」
「てめぇ…黙って聞いてりゃあ何を…」
小学生、を聞き終わるか否かくらいで、逆上した真弘がの腕を払って起き上がる。
しかしその体勢は、体は横にあるものの、腕はの頭の横についているため、なんとも恥ずかしいもので。
咄嗟に離れようとする真弘の腕を、はこれまた咄嗟に抑えつけた。
「真弘は十分強い。急に自分よりずっと強い相手が現れたら、怖いに決まってる」
「…」
「でも私は、真弘にもう何度も助けてもらった。心が強い人じゃないと、誰かを助けることなんて出来ない!」
言っている間に、声が掠れる。目から涙が零れていくのがわかる。
だけどこの人が、目の前の優しいこの人が、現状に絶望してしまわないためなら、何だってするつもりでいた。
途中からは真弘に言っているのか、自分に言い聞かせているのかわからないくらいになっていたけど。
「どんなに分が悪かろうが、立ち向かわなくちゃ守れないものがあるの。珠紀ちゃんを守るのは、真弘たちの役目なんでしょ!」
自分たちは出来なかった、何かに共に立ち向かうことは。でも、真弘たちならきっとそれが出来る。
「真弘が諦めたら!君たちが諦めたら…誰があの子を守ってあげるの…」
そこまで言って、後はもう言葉にならなかった。
悲しさと、悔しさ、目の前で、何度も自分を助けてくれた人が崩れかかっているのに、それすらどうやって助けたらいいのかわからない。
そんな気持ちが入り混じって、後は嗚咽しか漏れなかった。
「…泣くなよ」
ずっと黙っての言葉を聞いていた真弘が、不意に口を開く。
その声にが瞑っていた目を開けると、もうほんの目の前に、真弘の顔があった。
それはそのままの上に降りてくる。
「ま、」
「黙ってろ」
真弘の右手に顎を掬い上げられ、そのまま唇が重なった。
柔らかなそれは、の唇を覆うように触れて、控え目に啄む。
ちゅ、ちゅ、と小さく音を立てて繰り返されるその行為は、なんだかとても現実離れしているように思えて。
は頭の芯の方がゆるりと音を立てて溶けていく感覚に身を委ねた。




どれくらいそうしていたのだろう。
結びついた唇が再び離れる頃には、の涙はすっかり止まっていた。
代わりに残ったのは柔らかい感触と、速く打つ鼓動だけ。
体を離し、真弘は顎を掬い上げていた手での目元をごしごしと擦った。
「いたたた、真弘、痛い」
「痛くしてんだ、当たり前だろ」
「どこの鬼畜?!」
真弘の手をぐっと押し離して文句を言うに、真弘はにっと笑ってみせた。
「元気出たか」
そう言って笑う真弘の顔はとても優しくて、もつい顔を綻ばせる。
「悪かったな、お前にまで心配かけて。この真弘様が諦めたら、誰が玉依姫を守るんだよな」
「私は大丈夫。真弘が元気になってよかったよ、でも…」
「ん?」
言い淀むに、真弘はなんだよ、と不思議そうな顔を向ける。
「…随分、強引なんだね?」
控え目に発せられた言葉に、真弘は今気付いたかのようにみるみる顔を赤くした。
「ばっ、バカ野郎!あれはだな、お前が泣きやまないから、仕方なくっつーか…」
「…仕方なくなの?」
わたわたと慌てる真弘に、はぽそりと追い打ちをかける。
「ちが、仕方なくねーよ!あれは俺が…あー、もう!なんでもねぇ!」
堪え切れなくなったのか、真弘はぷいとそっぽを向いてしまった。
その様子にくすくすとが笑っていると、廊下の方からぱたぱたと足音がした。
「何大声出してんスか、先輩。廊下に筒抜けですよ」
程なくして開いた障子から、ひょっこりと拓磨が現れた。
真弘はうっせーぞ拓磨、とこれまたどでかい声で怒鳴りつけ、またぷいと違う方向を向いてしまう。
「…さん、さっきは」
「いいんだよ、拓磨君の気持ちはわかるし。もう大丈夫だから、気にしないでくれると嬉しい」
がその言葉を遮るように言うと、拓磨は少し表情を和らげて、はい、とだけ答えた。
「で、なんだよ。俺を呼びに来たんだろ?」
「そうスね、あと、起きられるようならさんも一緒にって、ババ様が」
「私も?」
は少しびっくりはしたが、それよりも真弘の方が驚いているようだった。
「おい、それどういうことだ?なんでまで」
「詳しいことはわかんないっスよ、大丈夫なようなら一緒にって言われただけで」
「真弘!私大丈夫だし、一緒に行くから」
なぜか拓磨に掴みかかろうとしてる真弘に、は慌てて言う。
真弘はちっと舌打ちすると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「なんなんだ、一体…」
「ほんとにね…」
取り残されたたちはお互いの顔を見合わせ苦笑した。





ややふらつく体を拓磨に支えられながら居間に着くと、すでに珠紀や卓、先に行ってしまった真弘が座っていた。
そして…
「あー、拓磨先輩!女性を支えるのになんですか、その微妙な掴み方!だめですよー」
そう言って一人の男の子が立ち上がって近くへ歩み寄ってくる。
確かに拓磨はふらつくをどう支えていいかわからず、片肘を自分の腕で支えこむような、微妙な体勢で歩かせていた。
「そ、そんなこと言ってもよ…」
「肩を支えてあげるんです、肩を!大丈夫ですか?」
「ありがとう、えーと、君は…」
そっと肩を支え、席まで案内してくれた少年を見る。
優しげな瞳に、柔らかい物腰。なんだか美鶴さんみたいだな、とは思った。
「僕は守護者のひとり、犬戒慎司と言います。はじめまして、さん」
そう言ってすっと頭を下げる。も慌ててそれに倣った。
微笑む慎司の姿になんだかくすぐったい気持ちになり、つられて微笑むと、すぐ隣に誰かが屈みこむ。
見ると、息を飲むほど美しい男の子がこちらを見ていた。
卓とはまた違った美しさ。銀色の髪に、金に近い色の瞳。白い肌は透き通るようで、恐ろしく端正な顔立ちをしている。
「狐邑、祐一だ。よろしく頼む」
言うなり祐一はじっとの膝元を見つめた。
「あの…?」
「ニー!」
が声をかけるのとほぼ同時に、影からが飛び出してきた。
「いいこだ。本当に緋の毛並みをしているんだな」
「ニー♪」
飛び出したは嬉しそうに祐一の手のひらに擦り寄っている。
「金色(きん)の目…あなたひょっとして、妖狐の…?」
「そうだ、よくわかったな」
少し驚いたような表情でを差し出す祐一の手からそれを引き取ると、廊下に強い気配を感じた。
咄嗟に廊下を見れば、音もなく一人の老婦人が部屋へ入ってくる。
「皆、揃っているようね」
その声は凛としていて、部屋の温度を少し落とすような錯覚を覚える。
直感的に、この人が先代様なのだろうと、は思った。
穏やかそうに見えるのに、どこか冷たく感じるのは、気のせいなのだろうか。
そんなことを考えていると、老婦人の目がすい、とを捉えた。
さんと言ったわね。体調の優れない中、呼び出して申し訳ないわ。私は宇賀谷静紀、この家の主です」
「いえ、こちらこそ、見ず知らずの相手にここまでして頂き、大変感謝しております」
は恭しく頭を下げる。なんにせよ行き倒れていた自分の面倒を見てもらったのだ。
一度顔を見てお礼を言わねばと思っていた。
そんなの言葉に、宇賀谷はいいのです、と穏やかに返すと、さっきよりも少し温度の落ちた声で言った。
「では、単刀直入に聞くわね。さん、貴女はどれくらい力を持っているのかしら」
瞬間、は何を言われたのかわからなかったが、すぐに理解した。
しかしどのくらいと言われても、比較対象が少なすぎる。
えーと、と言い淀んでいると、隣に座っていた真弘が声を上げた。
「ちょっと待ってくれ、それはどういう意味だ?」
「そうだよおばあちゃん、さんは危険な人じゃないよ?」
珠紀もそれに続いて抗議の声を上げる。
でも、先代様の考えは、きっとそんなものじゃないような…
「ええと…どこまでお聞き及びなのかはわかりませんが、私は今、自分の持って生まれた力に加えて、僅かながら三柱のカミの力を持っています」
なんとなく、宇賀谷の言いたいことはわかるのだ。しかし、自分にそれが出来るのかはわからない。
は少し考えた後、宇賀谷を見つめて口を開いた。
「守人たちのように使えるかは、正直わかりませんが…赤留姫の力ならば、多少の無理は利きます」
そして浅く頭を下げる。きっとこの人の望む言葉はこれであろうと思いながら。
「御所望ならば、微力ながら、お力添えを」
!何言ってんだ!」
「そうだよさん、体だってまだ本調子じゃないのに!」
「危険すぎますよ!」
猛抗議の嵐が、下げた頭の上で吹き荒れる。
しかしはそのまま、宇賀谷の言葉を待った。
「…決意の程、しかと受け取りました、赤留姫命。これよりは、当代玉依姫に従ってください」
そう言い置いて、宇賀谷は席を立つ。
「皆も、御苦労でした。もう遅いから、今日はこのまま泊まって行くといいわ。美鶴、部屋を用意してあげなさい」
「かしこまりました」
美鶴に託けて、宇賀谷は居間を去った。
頭を上げると、その後を真弘と卓が追いかけて行くところだった。
さん!どうしてあんなこと…」
「そうですよ!僕たちの敵がどんな相手なのか、少しくらいは聞いているんでしょう?」
ふぅ、と息を吐いたに、珠紀と慎司がすごい剣幕で詰め寄ってくる。
その後ろでは、拓磨と祐一も心配そうにを見ていた。
「いや、確かに私がいたってほんとに微力も微力なんだろうけどね」
「「だったらどうして!」」
詰め寄ってくる二人の勢いに押され、仰け反りそうになるのを必死で堪える。
「うう…あのね…もう、何も出来ないのは嫌なの」
は、消え入りそうな声で呟いた。
珠紀と慎司もその声音に気付き、すっと勢いを弱める。
「私がまんまと逃がされてしまったせいで、私の大切な人はみんな遠くに行ってしまった。もう、私には何も残ってなかった」
遠くから微かに、真弘の怒鳴り声が聞こえる。
「そんな私を拾って、生きろと言ってくれた人がいた。その仲間も、余所者の私に微笑みかけてくれる」
は遠くから聞こえる真弘の声に耳を澄ませながら、珠紀たちを順に見回した。
「その人が、その人たちが護りたいものを、私も護りたい。全部失くした私にも、出来ることがあるのなら、力になりたいの」
ひとつ息を吸って、はまたじっと、珠紀と慎司を見つめる。
「それじゃ、理由にならないかしら」
にこりと微笑むと、拓磨が溜息を洩らした。
「うちの姫様より、よっぽど手強そうだな」
「珠紀より、聡明そうだからな」
「それで頑固なところがあったら、もう折れるしかないですね…」
「ちょっと…みんな堂々と私をバカにしてない?!」
それを皮切りに、次々不平不満のようなものを漏らし出す面々。
が微笑ましく見ていると、守護者陣を睨みつけていた珠紀がくるりと振り返る。
「それなら、約束してください。絶対に無茶はしないこと。命を、絶対に、大切にすること。それから…」
の手を取りながら、真剣な目で話していた珠紀は、急にぱぁっと笑顔で言った。

「私のことは、珠紀って呼んでください。今日から、ちゃん付けは禁止です」
背後から拓磨の溜息が盛大に聞こえたが、は珠紀に微笑んでみせた。




今日からは、彼らのために生きてみようと思う。
大切な者たちのために出来なかったことを、今度こそやり遂げて。
そうしたら初めて、ごめんと、ありがとうと、そう言える気がするから。
皆それぞれ部屋へ戻った後、はそんなことを思いながら、月を見上げていた。





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