朝になると、真弘の姿はなかった。
だいぶ楽になった体をぐっと伸ばし、は傍らで眠っていたをそっと撫でる。
その左手を見つめながら、ふと、昨夜の温もりを思い出す。
ヤタガラスの血族。
眠りにつくまでのまどろみの中で、ぽつりぽつりと話したこと。
強く握っていてくれた、左手。

『生きて欲しかったんだ』

諭すような真弘の口調が、耳に蘇る。
光の漏れる障子戸の向こうからは、何事もないような自然の音が聞こえてくる。
暫くそうしてぼんやりと、鳥の声や陽射しに心を傾けていると、ぱたぱたと廊下を歩く音が聞こえた。
「失礼致します」
ごく控えめに、丁寧な挨拶が聞こえて、障子戸が開く。
「おはようございます」
が声をかけると、美鶴は少し驚いたような顔をしてから、「お目覚めでしたか」と微笑んだ。
「ええと、美鶴さん、ですよね?」
自己紹介をしたわけではなかったが、昨晩、居間で話をしているときに、ぽつぽつと出ていた名前だった。
珠紀が「ちゃん付け」で呼んでいたから、昨日から何度も自分を世話してくれた彼女のことだろうと思っていたのだ。
名前を呼ぶと、美鶴は少しばかり目を見張ったが、すぐに微笑みを浮かべて答えた。
「はい、言蔵美鶴と申します。その、失礼かとは思ったのですが、夜半に何度かお召しものを変えさせて頂きました。酷く、寝汗をかかれていたようでしたので…」
控え目に美鶴が言った。
はたと見れば確かに着ているのはが着ていた洋服ではなく、薄手の浴衣だった。
「あぁ、これは面目ない。お手間を取らせました」
そう言ってが頭を下げると、美鶴はぶんぶんと頭を振った。
「と、とんでもない!少しお元気になられたようで、何よりです」
そういうと美鶴はお盆にのった椀を差し出してきた。
「ゆるめのお粥を作ってきました。少しでも、召し上がってくださいね」
そして、「後ほどお着替えを持ってきます」と告げて部屋を出て行った。
お粥を見ながら呆けていたは、戸が閉まる寸前に「ありがとう」と叫び、美鶴はそれに微笑みを返した。
「よく考えたら、ご飯か…食べないと、さすがにバテるよね」
ぽつりと呟いて、は合掌する。
「いただきます」
ひとさじ口に含むと、まったくなかった食欲も目を覚まし、一気にたいらげた。




後から着替えを持ってきてくれた美鶴に尋ねると、真弘と拓磨は夜も更けた頃帰宅し、珠紀はすでに学校に行ったのだという。
はふーむ、と少し考え、迷惑ばかりかけてるせいあって気は引けるが、美鶴に話を聞いてみることにした。
「美鶴さん、少し聞いてもいいかな」
美鶴の用意してくれた着替えはなぜか和服だったので、着付けを手伝ってもらいながらは口を開く。
「ここには、鬼切丸が封印されているって、本当?」
ぴくりと美鶴の手が動くのが見えたが、返事を待つ。
「…はい、本当です。このお屋敷は、先代玉依姫様である、宇賀谷様のお屋敷です」
ここが玉依姫の家だったか。はふとそんなことを思う。
「見ず知らずの私にここまでしてくれて、頭が上がらないよ。先代様にお目通しを、と言いたいところだけど…」
「申し訳ありません、ババ様は…」
予想通りの問いにはクスクスと笑う。
「いいよ、どこの家でも『ババ様』は同じね。美鶴さんの方から、よろしく言っておいてもらえるかな」
美鶴は『お目通し』の言葉に少し表情を曇らせたが、がそういうとまたその顔に微笑みを乗せた。
「はい、そのようにお伝え致します」
言い終わると同時に帯が結びあがる。
「ひゃー、着物なんて久しぶりに着たよ。引き締まるね、色々と?」
にやりと笑ってが言うのを見て、美鶴もクスクスと笑った。
そのまま廊下へ出ると、真っ青な空が心地良い、見事な快晴が広がっている。
うーん、と背伸びをすると、森深い山々に囲まれているせいか、空気が一層おいしく感じられた。
「美鶴さん、ちょっと出てきてもいいかな?」
振り返り様に言うと、ぽかんとした表情の美鶴が目に入った。
「ですが、お身体の方は…」
「心配いらないよ、私も山育ちだからね!昨日のあれは、不可抗力って言うか…」
は言い淀む。もう体の中に、呪詛の気配は感じられない。
どうしてなのか考えないといけないのかもしれない。
それでもは、まだそれを知りたくないと、そんな考えをすべて振り切った。
「では暗くなる前までにはお戻りくださいね?本当はまだ、横になっていて欲しいのですから」
美鶴の心配そうな、でも優しい声を聞きながら、は笑顔で頷いてみせた。




「さて、でも、どこに行ったもんかな…」
「ニー」
屋敷を出たものの、まったく田舎というのはまったくもって土地勘の掴みずらい場所である、とは思った。
「どうしようか、?」
「ニー…」
に問いかけてみるも特に意味は成さず。
はとりあえず、気配を探り探り歩いてみることにした。
久しぶりに着た和服のせいか、まだ全快していない体のせいなのか。多分どちらもなのだろうが、普段通りの歩みを望めないことには薄く微笑った。
村道をゆったりと歩く。
木々の揺らめく音、小鳥の鳴き声。川があるのか、少し離れたところからは水の音。
「いいところだね、
「ニー」
道々、に声をかけては、は景色を楽しんでいた。
穏やかな時間。
はなるたけ村のことを考えないようにした。
少しでも思い出せば、心はすぐにはち切れて、こんな風に歩くことさえ出来なくなってしまうんじゃないかと思っていたから。

『お前に、生きて欲しかったんだ』

初めて会ったばかりの、ほんの数時間しか話をしていない真弘はそう言った。
『生きろ』と、そう言って自分を逃がした彼らと、同じような声音で。
あの日、は誰の顔も見ていない。
幻術で自由を奪われた体は、大切な人たちの顔をもう一度見るという願いさえ容易く打ち砕いた。
その言葉だけが、その響きだけが。
一際悲しく啼いた、あの空気だけが、今にも自分を支配してしまいそうで。
は俯いたまま、暫くその場に立ち尽くしていた。が肩の上で小さく鳴いたが、笑顔で応えてやることはできなかった。

「もしもし?」

不意に、背後から声がかかる。
びくりと体を揺らして、おそるおそる振り返ったの目に入ってきたのは、背の高い、着物姿の男性。
和装には似合わないくらい長い髪を緩く束ね、切れ長の、だけど穏やかで優しい目が、シンプルなデザインの眼鏡の向こうからこちらを見ていた。
一瞬、女性かと見紛うくらいの、美しい男性。
警戒しながら振り返ったはずのは、無意識に息を呑んでいた。
「どうしました?こんなところで立ち呆けて」
の様子を見て、にこりと微笑んだ男性は優しい声で言う。
「あ、いえ、あの、少し考え事をしていて…すみません、通れませんでしたよね」
はっとして咄嗟に出した声が全体的に裏返っていたのを、自分でも痛いくらいにわかってしまったは少し頬を赤らめて俯いた。
しかし男性が自分を通り越していくことも、動く気配もない。
が不思議に思い始めた頃、くすくすという笑い声とともに、また男性の優しい声が届いた。
「いいえ、私はあなたを追いかけてきたんですよ」
そんな言葉にはバッと顔をあげ、まじまじと男性を見つめる。
「大蛇卓といいます。玉依姫に仕える、守護五家の纏め役をしています。ババ様の家に行ったら、心配だからと美鶴さんに頼まれまして」
そういって、卓はまた優しく微笑み、すっと手を差し出した。
わたわたとはその手に応え、軽く握手を交わす。
「あ、といいます。この度はご迷惑をおかけして…」
「そんなことはありません、あなたも大変でしたね。今はゆっくり、この村で休養を取ってください」
微笑みを向けられ、胸がどきりと大きく鳴る。
やはり、見惚れるほど綺麗な人だなぁと思って、ははたと気付く。
「あの、どうして大変と…」
「美鶴さんから、少しだけ事情を伺いました。彼女は鴉取君や鬼崎君たちから聞いたのだと思いますよ」
そっか、と一息吐いて、は自分が卓の手を握ったままだったことに気付いた。
「ああぁ、すみません!この手が!」
慌てて手を離すと、卓は微笑みを浮かべて、今度は逆の手での手を取った。
「え、あの?」
「どうか、そのままで。体調も万全ではないでしょう?そのまま私に手を預けてください」
そう言って、卓はまるで王子様がお姫様をダンスに誘うように手を引く。
顔に血が昇るのをは感じた。こんな扱いを受けたことはなかったし、それに…
優しい、瞳。
穏やかで、上品な色。優しい、大地のような琥珀色。
「蛇の…?」
無意識にそう呟いた。真弘の時、感じたのと同じ感覚。
卓の目は『三魂』のひとつとやはり同じ色で。
「…ええ、私は、大蛇(オロチ)の血を引く者です」
卓は答え、おまけに巳年です、と付け加えた。
少しおどけたような物言いに、はくすくすと笑う。
「さあ、行きましょうか。村を少し案内しましょう」
の笑顔を見ると卓は満足そうに笑い、その手を引いて歩き出す。
お願いします、と返して、も手を引かれるままそれに続いた。




赤玉依姫の名を、聞いたことがなかったわけじゃなかった。
暫く商店街などを案内しながら、卓は隣で物珍しそうにきょろきょろとしているを見る。
玉依の分家なわけではない。しかし神降ろしをする巫女を玉依姫と呼ぶという話は聞いたことがあったし、カミは何も季封村にだけいるわけではない。
それが見えたりする人間が、この村だけにいるわけではないことはわかっていたが、こんなにも鬼切丸の伝説に関わっている者が存在しているとは思わなかった。
ババ様は知っていたのだろうか、この少女のことを。
三柱のカミの力を与える三つの勾玉、そして鬼の血から出でた赫い勾玉。
カミに生贄にされるはずだった少女は、逃がされ、この季封村へと辿り着いた。
それも、封印の薄れ始めた、この鬼切丸封印の地に。
何か、あるのか。何か…
「大蛇、さん?」
控え目にかけられた声で我に返った卓は、いつの間にか立ち止まっていたことに気付く。
隣を見れば、が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
大きな黒い瞳、透けるように白い肌。
赤みを帯びた髪の毛は、長く絹のようだ。
「すみません、少し、考え事をしてしまいました。さんとお揃いですね」
そう言って微笑めば、も安心したように笑った。
とても美しい少女。
内面にも、珠紀とはまた違った魅力があるように感じる。
この少女が生贄にされる運命だったのならば、それを止めようとした彼女の守人たちの行いは、正しかったんじゃないかとすら思ってしまう。
「では、行きましょうか。守護者の皆さんが通っている、高校の方にも行ってみますか?」
は嬉しそうに「はい」と答えると、にこにこと笑っていた。
自分たちは珠紀を護る者。
しかしの存在を知ったババ様の考えがわからない今、彼女を蔑ろにするわけにもいくまい。
それに、きっと彼女に危害が及べば、我らが姫が黙っていまい。
そんな考えに卓はふっと微笑み、の手を取り直して歩き出す。
太陽は西に傾き始め、きっと村を回って高校に着く頃には夕暮れだろう、と、卓は思った。





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