珠紀たちが通うという学校に着く頃には、もうだいぶ日は傾いていた。
柔らかな橙色が、辺り一帯をおんなじ色に染めていく。
あれからは卓に連れられて村の目立つところを案内してもらい、行くのは危険なところ、それから、この村で起きていることや、彼らのことを少し教えてもらった。
鬼切丸の封印が弱まりつつあること。
ロゴスという西洋の者が、鬼切丸を狙って攻めてきていること。
そしてそのロゴスにすでにふたつ、封印の補助の一角である法具が奪われてしまっていること。
それから、守護者の力では、ロゴスに敵わない、ということ。
「大丈夫です」と卓は微笑んでいたが、きっと大丈夫ではないのだろう。
そんな大変なときに、いつまでもやっかいになっているわけにはいかない。
がそんなことを考えていると、ずっと手を引いていてくれた卓が立ち止まった。
「さあ、ここが学校です」
いつのまにか俯いていたが顔を上げると、そこは門の前だった。
その奥には、木造らしい校舎がどーんと建っている。歴史のありそうな風貌と、村の学校にしては中々の大きさのそれに、は思わずうわぁと声を漏らした。
「すごく立派な校舎!私の村の学校なんて、もっとボッロボロで…」
言いかけて、ははっと口を紡ぐ。
学校も、家も、みんなも…村自体がどうなっているかさえ、今のにはわからなかった。
思わず泣いてしまいそうな気持ちを堪えるように、ぎゅっと両手を握る。
そして、その手を不意に力強く握り返され、我に返る。
はたと見ると、卓の手をも一緒に握り締めていた。
「ごっ!ごめんなさい!私…!」
手を引かれて歩くのにも次第に慣れ、赤みの引いていた顔に、また急激に熱が籠もる。
振り放そうとしたものの、卓の手はのそれを握ったままだった。
「お、大蛇さん?」
「不安、ですか?」
まっすぐ見据えられて問われると、は咄嗟に俯いた。
その優しい目で見られると、心の底をすくい取られるような声で問われると。
崩れてしまう。
「私…」
暫くそのまま、泣き出しそうな気持ちを抑え込んで、が顔を上げたそのとき。

「俺は、まだちょっと信用できないスよ」

不意に門の中の方から声が聞こえてきた。
「どうしてそんな風に言うの?拓磨はやっぱり、少し心配症過ぎるよ」
「確かに少し、タイミングが良すぎる気はするな」
「僕たちはまだ会ってないですけど…でも決めつけるのはよくないと思いますよ?」
「まぁ、お前が心配するのもわかるけどよ…関係ねぇってことは昨日の話でわかってるじゃねぇか」
聞いたことのある声と、気配。
珠紀たちだとすぐにわかる。なんの話を、しているのかも。
たちが立っているところは門の外側で、門を通ってきた人には少し死角になる。
卓が気付いているかはわからないが、はつい握ったままだった手に力を込めた。
出来れば、気付かず行って欲しい。きっと苦しい気持ちになるのは彼らだから。
「心配っていうより、元は鬼切丸のせいで生まれたようなもんじゃないですか、あっちの守護者の力は」
彼らはまだ門から出てきていない。今の内に立ち去ってしまいたい。
その先は聞きたくない、と、の鼓動は逸ったが、足は一向に固まったままだった。
「…そのせいであの人の仲間は死んだ。よからぬことを考えたっておかしくはない。それだけの力があの人にあることくらい、真弘先輩だって気付きましたよね?」
「…まぁ、危険ではあるのかもな、力自体は」

―死んだ―
その言葉だけが、の耳に木霊のように反響する。
両目から、何かが零れ落ちるのがわかる。
死んだ。
問わなくてもわかっているはずなのに、頭の中では「誰が?」という声が自分に向って問いかけ続ける。
そんなの、わかってた。
この体に、もう彼らの施した術は、何一つだって残っていない。
それが何を意味するかくらい、わかってたはずだった。
『危険な力』
ふと、村でもそんな風に言われたことがあったな、と、妙に冷静に思い出す。

―お前が持つのは危険な力だ
―潔く覚悟しておくれ
―十八までの辛抱だよ

―早く死ね

思い返してみれば、キリがない。それくらい、死ねと、言われ続けてきた。
辛くない、もう。辛くないはずなのに…
の目からは止まることなく涙が溢れていた。
「もう!真弘先輩までそんなこと……あれ?卓さん?」
背後から卓に声がかかる。咄嗟には卓の手を外した。
「おかえりなさい、珠紀さん」
卓は珠紀に微笑みながら言うと、そっとの肩に手を置いた。
「どうしたんですか?こんなところで…どなたですか?」
ぱたぱたと駆けてくる珠紀の足音に、はびくりと肩を震わせると、卓の手を振り払って駆け出した。
さん?!いけません、戻ってください!」
「えっ、さん?!」
「何?!」
卓が走り去るその背中に叫ぶように声をかけたのと同時に、珠紀や他の声があがったが、は聞き入れることなくその場を去った。




暫く走り続け、いつの間にか森に入っていたようだ。
は傍にあった木に凭れかかり、乱れた呼吸を整えた。
どのくらい走っていたのだろうか。辺りはもうだいぶ薄暗く、注意して歩かなければ道がわからないくらいだった。
「私…何やってんだろ…」
息を吐くと、走って熱を持った体と森の異様なまでの冷たさのせいか、ほんのりと白く見えた。
乱れていた着物を正さなくてはと思ったが、そのまま木の根元に座り込む。
「死んだ」
「危険だ」
「信用できない」
言葉は相変わらず頭の中を占めていたが、もう涙は流れなかった。
泣いたとして、誰か戻ってくるのだろうか。
自分のこの力が、消えるんだろうか。
誰かが、自分を助けてくれるんだろうか。
もうすべて、失ってしまったのだと、はぼんやりと考えていた。
大事なものは、全部遠いところへ行ってしまって、残ったのは力だけ。
欲しくて得たわけじゃない力。
首元から、するりとそれを取り出す。
真っ赤な自分の『赫の破片』、それと、の首から外した『三魂』。
辺りが暗いせいではっきり見ることは出来ないが、それはひやりと冷たく、はそれを力いっぱい握りしめた。
「こんなものの、せいで…」
何故自分が、と思わなかったときなんてない。
でも自分が生まれたせいで、自分を守ることを義務付けられた者が生まれてしまった。
それならその人たちのためにと、耐えてきた。どんな暴言も、侮蔑も、「死ね」と、言われることも。
それなのに、会ったばかりの相手に「信用できない」と言われるだけでこんなにも心が軋むのは。
もう、私の守りたかった人たちが、この世にいないという現実を、どこかでわかっていたからだろうか。
会って間もない人たちに、拠り所を求めていたのだろうか。
は自嘲気味に笑った。
そんなことが許されるはずない。
死ぬべきだった自分が生きていて、生きるはずだった者たちが死んだ。

「生きて、ほしかったんだ」

不意に真弘の言葉が蘇る。
優しくて、どこか切なげな、真弘の声。翡翠色の瞳は、行燈の光に揺れていた。
その声はさっき、自分の力を「危険」だと言った。
「鴉取君も、私が死ねばよかったと思うのかな…」
ぽつりと口から漏れた言葉に少し驚いて、また苦笑する。
こんな状況になっても、まだ誰かの言葉を求める自分に。
「…は…んなわけ、ねぇだろうがっ…」
突然横からかけられた声に顔を上げる。
見ると、凭れていた木の反対側に手をついて、真弘がこちらを睨んでいた。
息は荒く、走ってきたのだろうか、額には汗が浮かんでいた。
「鴉取、君?」
「バカ野郎が…」
言うなり真弘はドカッと音を立てての隣に腰を下ろした。
(追いかけて、きてくれた…?)
突然現れた真弘を見つめながら、がそんなことを思っていると、不意に体が引き寄せられた。
「うわっ、えっ?」
「黙ってろ」
言われるままは口を紡ぐ。
自分の頭は真弘の胸に押しつけられ、体はその腕に抱かれている。
真弘の鼓動が耳に届いて、きっと必死に自分を探してくれたのだと思うと、軋んでいた心が鳴りを潜めていくのがわかった。
静かな森。音が何も聞こえないくらいに。
その中で、は真弘の鼓動だけを聞いていた。
「悪かったよ」
バツの悪そうな真弘の声に慌てて上を向くと、いつの間に差し込んだのか、青白い月明かりが真弘の顔を照らしていた。
「さっきの話、聞いてたんだろ。泣かせちまったな」
そう言って、真弘はきつくに回していた腕を緩め、再び頬を寄せて抱きしめた。
「けど、俺はお前に死んでほしいなんて思ってない。誓ってもいい」
「…」
「確かにお前は強い力を持ってるんだろうな。けどお前がその力に溺れるほど弱い女には見えねぇ」
真弘の言葉に、は制服をぎゅっと掴んだ。
「辛い思いしたのも、知ってる。詳しいことを話したくないってんなら、俺はかまわねぇんだ」
目頭が熱くなっていく。もう残っていないと思っていた涙が、の目に溜まっていく。
の肩を抱く真弘の手に、少しだけ力が込められた。
「ただ、お前はひとりじゃない。泣きたいときは傍にいてやるから、思いっきり泣けよ」
その言葉を皮切りに、は真弘に縋って泣いた。
失くしてしまった大切なもの、生かされた自分、その元凶に、同じように苦しめられている人たち。
色んなものが頭を巡って、訳がわからないまま、は泣きじゃくった。
真弘は菜月を抱きしめたまま、ただその声にもならない掠れた声を聞いていた。





「ったく、うちの姫様ばりに手がかかるな…」
夜の森を、を抱えて走る。
今しがたまでわんわん泣いていたはいつのまにか眠っていた。
静かになったな、と思ったときにはもうすぅすぅと寝息を立てていて。
仕方がないのでそのまま抱きかかえて帰ることにしたのだ。
ちらりと顔を盗み見ると、泣き腫らした目は未だに少し濡れていた。

「死ねばがよかったって思うのかな」

異界の森の中を、微かに残る気配を追って、漸く木々の合間から覗く着物の裾を見つけたとき、そんな風に呟いていた
「…思うわけが、ないだろうよ」
自分と似たような境遇に生まれた
どんなに割り切ったって、どんなに納得してみたって、心のどっかでは蟠ってるに決まってる。
「死ね」と言われ続けることが、どんなに辛いか。
誰かを犠牲にして生き続けてしまったその事実が、どれだけ重く彼女に圧し掛かっているのかは、真弘にはわからなかった。
だけど小さな頃、死ぬのが怖くて逃げだした自分が聞かされた言葉。
『貴方が逃げれば、拓磨も祐一も、卓も慎司もみんな死ぬのよ』
ただただ、怖かった。
それがには、現実になってしまったということなのだろう。それも、自ら望んだわけではなく…
真弘はを抱く手に力を込める。
この華奢な少女をこの腕に強く抱くのは、もう何度目になるだろう。
薄く笑みを浮かべて、真弘はもう一度を見た。
生きるのが、辛いだろう。大切な誰かの犠牲の上に生きるのは、とても。
「それでも、お前が生きていてくれて、よかったよ」
死ぬことでしか意味を成さない自分の命も、少しだけ救われた気がした。
少しだけ、心が軽くなるような、そんな気持ちが真弘の中にあった。
自分が死ぬことで救われる世界に、が生きていけるのなら。
「…おれが、守ってやる」
いつか、もし自分が死ぬことになっても、が笑って生きていけるように。
その心の傷が、少しでも癒えるように。
そのときまで、傍にいてやらないと。

月が明るく輝く夜。
真弘はそう心に誓いながら、異界の森を駆け抜けた。
腕に、護ると決めた少女を抱いて。




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