赤い陽が、山の木々の中に落ちてゆく。
今日も何事もなく、もうすぐ陽の差す時間が終わる。
真弘はひとり屋上で、夕暮れに染まっていく山々を見つめていた。
二つ目の宝具が奪われたあの日から、ロゴスは鳴りを潜めたまま、手がかりも掴めていない。
あの、圧倒的な、力。
「…敵う気が、しねぇな」
呟いて、真弘は自嘲気味に笑う。
初めて見せつけられた、途方もない力量の差。
真弘は自分の中の、自信や信念のようなものが、悉く揺らいでしまいそうな不安を改めて思う。
「勝てるかよ、あんなもん…」
そう口にして、ごろりと横になる。
東の方の空は、夕陽の橙から、夜の藍色に染まり始めていた。
同胞たちが、カァカァと鳴きながら、住み処へと帰っていく。
その声に耳を澄ませていた真弘に、不意に同胞のそれとは違う鳴き声が入り込んできた。
「ニー」
慌てて飛び起きる。
それは玉依姫の、つまり珠紀の使い魔、「オサキ狐」の声だったからだ。
声のした方に目をやると、そこにはやはりオサキ狐がいた。
自分に気付いた真弘に、再び「ニー」と小さく鳴くと、じっとこちらを見つめたまま動かない。
「お前、どうしたんだ?あいつになんかあったのか?」
オサキ狐は、主の身に危険が迫り助けが必要な時や、そう命じられた時しか、その傍を離れない。
しかし慌てる様子もなく、オサキ狐はじっと真弘を見つめている。
「お前…?」
傍に寄ろうとして、真弘はぴくっとその身を揺らして立ち止まる。
(クリスタル・ガイじゃない…?)
クリスタル・ガイとは、珠紀のオサキ狐に真弘が勝手に付けた名前で、普段からそう呼んでいた。
しかし目の前のオサキ狐は、自分が「クリスタル・ガイ」と名付けたそれとは違う。
真弘は直感的にそう思い、歩みを止めた。
(紋章が、赤い…)
そして気付く。珠紀の連れているオサキ狐の額に浮かぶ紋章は、青い。
しかし今、目の前に対峙するそれの紋章は、鮮やかな赤色をしていた。
「お前、何者だ?何をしに、ここへ来た」
オサキ狐は真弘を見つめたまま一声鳴き、その小さな頭を下げる。
それが、真弘には何か、縋るような仕草に見えた。
「何か、頼みたいことでもあるのか?」
オサキ狐は、助けを求める時、自らの判断で主の元を離れる。
もしかしたら、主人を助けて欲しくて、ここに現れたんじゃないかと、真弘は思った。
「ニー」
下げていた小さな頭を戻すと、先刻よりも少し弾むような声で鳴き、突然走り出した。
「お、おい!待て!」
真弘は慌ててオサキ狐の後を追った。
珠紀の発案で、今日は玉依姫や、その守護者のことを調べることになっていたが、こうなってしまっては仕方ない。
腹を括って、真弘は風の力を使い、自らに追い風をかける。
そして、遥か前を走っていたオサキ狐をひょいと捕まえると、優しく言った。
「乗りかかった船だ、ついて行ってやるよ。しっかり案内しろよな」
その言葉に安堵したかのように、オサキ狐は力強く「ニー!」と鳴いた。
オサキ狐が示す方向は、皮肉なことに、初めてロゴスと対峙し、全面抗争となった封印域だった。
(もう宝具のない封印域…やっぱ、ロゴスとは関係ねぇのか)
オサキ狐の指し示す方向へ向かいながら、敵の罠かもしれないと思っていた真弘は、自嘲気味に微笑った。
戦うことが「怖い」と、いくら虚勢を張っても拭えないものを、鼻先に突きつけられた気がして。
珠紀と拓磨には、校門ではち合わせた。
「少し寄り道してから行く」とだけ告げて、返事を待たずに走りだして、今に至る。
拓磨の恨めしい顔を思い出して、真弘の顔に今度は素直な微笑みがこぼれた。
「ニー!」
ひとり、思い出し笑いをしながら走っていると、不意に掌のオサキ狐が声を上げた。
「こっちか?こっちには…」
言いながらその声が急かす方向へ走る。
それは宝具の封印が成されている場所。今はもう、からっぽの。
視界がひらける。
異界の森を抜け、尚も変わらず静寂を放ち続けるその場所は、真弘に激しい感情を湧きあがらせる。
「二」
封印をねめつけ、立ち尽くしていた真弘の掌から、オサキ狐がするりと飛び落ちる。
それはそのまま封印の裏手に周り、小さく鳴き続けている。
「何があるんだ?こんな…」
もう、何もないところに。
その言葉は呑み込んだ。あのオサキ狐に当たっても意味がない。
真弘はゆっくりと、オサキ狐の向かった封印の裏手に周った。
「女…?」
真弘は思わず呟く。
オサキ狐の後を追って、周り込んだ封印の後ろには、同い年くらいの少女が倒れていた。
「おいっ、お前、大丈夫か?!」
我に返り駆け寄って、抱き上げる。
「は…」
真弘は、思わず息をのんだ。目を伏せていてもわかる。
自分は今、これまで見てきた中で、一番美しい人間を見ている、と。
伏せた睫毛は長く、白い肌は透き通り、その長い髪は絹糸のようだ。
暫く呆けていた真弘の足に、「ニー」とオサキ狐がすり寄る。
はっとした真弘は、慌ててその頭を優しく撫で、こくりと頷いた。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
そう声をかけられて安心したのか、オサキ狐は少女の影に消えていった。
「さて、と…」
真弘は少女を抱きかかえて立ち上がり、ぐっと腕に力を込める。
オサキ狐を使役し、この村の結界を越えてきた者だ。宇賀谷に引き合わせることは少し躊躇われるが、いき倒れの者をどうこうしようというほど、先代だって鬼ではない。
少し考え、真弘は宇賀谷の屋敷を目指すことにした。
空はもう大部分が藍色に染まっている。
もう少し遅れていたら、この少女はカミに連れていかれていたかもしれない。
真弘は少女を抱く手に、更に力を込めた。
どこから来たのか、何故あそこに居たのか。オサキ狐を連れているのは何故か。
何者なのか。
宇賀谷邸に向かう道々で、真弘には数えきれぬ疑問が浮かび上がったが、それらは、徐々に迫る夜の闇の中に消えていった。
少女から放たれる空気が、心地よかったから。
どこか、自分の気と同じような質のそれは、同時に真弘を柔らかく包むような感覚があった。
「癒される」と、そう言い換えるのが妥当かもしれない、と、真弘は思う。
ふっと微笑むと、追い風を強め、一気に森を駆け抜けた。
宇賀谷の屋敷に着いたのは、夕日が落ちて暫く経った頃だった。
玄関の戸を開けると、ぱたぱたと足音がして、見知った着物姿の少女が迎えてくれた。
「おう、美鶴」
「お帰りなさいませ、鴉取さん。珠紀様も鬼崎さんも、心配しておられます、よ…」
美鶴は言いながら、真弘の抱えていた少女に気付き、戸惑いながら尋ねた。
「あの、そちらの方は…?」
「この前襲われた封印域で、いき倒れてた。外傷はないが、いくら声をかけても反応がない」
そこまで言って、真弘は言い淀む。
言っていいものか。オサキ狐を従わせる必要のある存在であると。
オサキ狐は巫女姫の従者。つまりこの少女は少なからず、霊力を持った人間である。
「鴉取さん…?」
美鶴の心配そうな声に我に返り、真弘は口を開く。
「…赤い紋の、オサキ狐を連れてる。とりあえず、寝かせてやってくれ。俺はババ様に話す」
オサキ狐を連れている、という言葉に、美鶴は一瞬目を見張らせたが、すぐに「わかりました」と答え、廊下をぱたぱたと走り出す。
真弘は少女を抱えたまま、美鶴の後を追うように奥へ進んだ。
「真弘先輩、何やってたんすか。ちょっと寄り道って、どんだけかかって…」
「そうですよ!もうすっかり日が暮れちゃって…」
廊下を進んでいくと、足音を聞きつけた珠紀と拓磨が居間からひょっこり顔を出し、同時に文句を言い放つ。
しかしそれも先の美鶴と同じように、真弘の腕の中の少女を見て語尾は空に消えていく。
「あの、先輩?その子は…?」
おずおずと尋ねる珠紀に、真弘は「説明は後だ」とだけ言ってその場を去った。
二人には悪いが、廊下で時間をとるよりも、早く少女を横にならせてやりたかった。
それに先代にも伝えなくてはならないことがある。
真弘は急ぎ足で廊下を進んだ。
「詳しく、説明してくれるわね」
宇賀谷はいつもと変わらぬ穏やかな口調で真弘に言った。
「先日ロゴスと対峙した封印の裏手に、あの娘が倒れてた。学校へはオサキ狐が呼びに来た。珠紀のオサキ狐かと思ったんだが、額の紋が赤かったからな。あいつのは、青い紋の狐だろう」
真弘はひら、と片手を上げる。
「そのくらいしかわからないぜ。なんたって気絶してるんだからよ」
「そう…」
「とはいえ、結界を越えて、更に封印域にいたんだ。並大抵の人間ではないんじゃねぇか」
そこまで言うと、真弘は腰を上げて、ぐーっと背伸びをした。
「どうして私のところへ連れてきたのかしら」
宇賀谷はやはり穏やかに言う。
それを見て、真弘は心に靄がかかる感覚を覚えた。初めてのことではなかったが。
「ババ様なら、悪いようにはしないんじゃねぇかと思って、だな。オサキ狐を付かせるくらいのやつなら、それなりのところに置かないといけないだろう」
言い置くように、真弘は戸へ歩き出す。
「賢明な判断ね、真弘。御苦労でした」
「以上が報告だ。頼むから、巻き込まないでやってくれ」
宇賀谷の言葉を背中で受けながら、戸に手をかけたまま真弘は呟くように言った。
廊下に出ると、部屋の外には美鶴が控えていた。
「終わったぜ、すまなかったな」
真弘が言うと、美鶴はいいえと首を振る。
「ご苦労さまで御座いました。…あの方は、客間の方で横になっています、大事はないようです」
微笑みと共に告げられた美鶴の言葉に、真弘はほっとした。
月がぼんやりと、柔らかな光を放って、宇賀谷邸の廊下を照らす。
客間の一室の前で、真弘は立ち止まる。
意を決するように戸に手をかけ、静かにそれを開けると、布団の中で眠る少女の姿が目に入る。
大事ないとは言われたが、聞くと見るではやはり、心持ちが違うなと真弘は思う。
枕元の行燈がゆらゆらと少女の輪郭を浮かび上がらせている。
傍まで行くと布団がもそりと動き、その中からオサキ狐が現れた。
「お前、よく頑張ったな。偉かったじゃねぇか」
布団の傍に腰をおろした真弘の膝にすり寄るオサキ狐を撫でると、それは嬉しそうに「ニー」と一声鳴いた。
その様に真弘は微笑み、オサキ狐を膝に乗せて、その主人を眺めた。
端正な顔立ちの、美しい少女。「綺麗」という言葉が似合うというか、それそのもののような姿。
なんだか、祐一みたいだな、と、真弘は笑った。
すぅすぅと、少女は規則正しい寝息を立てている。
「よし、じゃあ俺は行くぞ?ついててやれよ?」
オサキ狐にそう声をかけると、真弘は立ち上がり部屋を出ていく。
オサキ狐は「ニー!」と鳴くと、その背中を見送った。
遠くなっていく足音。
それが消えた頃、オサキ狐は主の頭に寄り添うように近付いた。
不意にその体を、細い指がそっと撫ぜる。
「…?」
部屋に声が響くと、「」と呼ばれたオサキ狐は「ニー」と高く鳴き、声の主にこれでもかとすり寄った。
「ここ、は…?」
少女はその身をゆっくり起こすと、部屋を見渡して呟く。
そしてまだ完璧には自由の利かない体を無理矢理立たせると、光が伝う方へ歩き出した。
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