翌日、は早々に起き出した。
眠れなかったのもあったが、したいことがあったのだ。
珠紀たちを玄関から見送って、美鶴に声をかけた。
「美鶴さん、お願いがあるの」
振り返り不思議そうな顔をする美鶴に、はいつもより温度の低い声で言う。
「先代様に、お目通しを」
美鶴は一瞬瞳を大きくしたが、それはすぐに元に戻った。
「実は、ババ様から様にお呼びがかかっています。不調のようなら午後にとのことでしたが…」
「それならば、先代様のご用意が済んだら早々に」
「用意の必要はないわ」
には願ってもない宇賀谷の呼び出しに胸を撫で下ろすと、廊下の奥から声がかかった。
「先代様。お身体はよろしいのですか?」
宇賀谷はいつも通りの上品な着物姿に、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう、今日はいいのよ。そろそろあの者も着く頃でしょう」
あの者?
が問い返そうとすると、背後から「こんにちは〜」と少し間の抜けたような男の声が聞こえてくる。
「おやおや、先代様に赤玉依姫様がお出迎えとは。こりゃあ贅沢だ」
振り返るとそこには、以前境内で『神降ろし』をしていたときに出会った不精髭の男が立っていた。
「あなた…」
「また会っただろう?赤玉依姫。そういつまでも警戒しないでくれないかな」
少しだけ霊力を解放し身構えると、宇賀谷がを制した。
「よいのです、彼は私が呼んだのよ。二人とも私の部屋へ」
宇賀谷は踵を返し、自室のある奥へと歩いて行く。たちもそれに続いた。




「まずは少し、この者の話をした方がよさそうね」
宇賀谷の部屋に着くと、上座にいる宇賀谷から三角を取る形でと男は腰を下ろした。宇賀谷の言葉を受けると男は徐ろに口を開く。
「僕は芦屋正隆だ。前にも言った通り、国家公務員だよ」
『国家公務員』という言葉にが訝しげな表情を見せると、芦屋はにやにやと笑った。
「だから、そんな目で見ないでくれよ。僕の部署、典薬寮は少し変わっていてね、カミと人、カミ同士の間を取り持ち、管理するためのもの。そう言えばわかりやすいかな」
芦屋の言葉には目を見開く。目の前の男は、今信じがたいことを口にしている。
「ちょっと、待って。それじゃあなたは、カミに関することをすべて管理する機関に身を置いている、そう解釈していいのかしら」
脈が速く打つ。ふつふつと言い難いものがの中に湧き上がっていく。
「そういうことだ。さすがに聡明、理解が早くて助かるよ、赤玉依姫」
満足そうに笑う芦屋に、は飛びかかりその胸倉を掴んだ。
「典薬寮?そんなものがあるなんて、聞いたこともないわ」
「一般には極秘事項なんだよ。そんな怪しいもんが国家機関にあるとわかったら、国は機能しなくなるだろう?」
「カミと人との間を取り持つのも、仕事なのよね?」
言いながら、の手には力がこもる。その目からは意識しない涙がはらはらと零れていた。
「だったらどうして!私の村を何百年も放っておいたの?!あんなに力を持つカミを、見落とすはずがないでしょう?!」
の体からは、少しずつ制御しきれない霊気が漏れていく。生身の人間に直撃させたら致命傷になりかねないほどの。
「見落としたんじゃない。こちら側からは、見えなかったんだ」
胸倉をきつく掴まれながら、芦屋は表情を変えないまま言う。
「頭のいいカミだったんだろうな。外側からは見えないように、内側には気付かれないように結界を張っていた。君が村から出たことで、それを張る必要が無くなったんだろう。西から突然ものすごい力が現れて、僕らもだいぶ焦ったんだ」
の手は力なく落ち、同時に芦屋の目の前にへたり込む。
「そん、な…」
「助けなかったわけじゃない。助けようにも、わからなかったんだ。すまないことをした」
芦屋はへたり込むに、少しよれたハンカチと煎餅を一枚差し出した。
素直にそれを受け取っても、の頭には靄がかかったままだった。
助かったかもしれなかったんだ。先代様も、その前の赤留姫様たちも…自分の、大切な人たちも…
そんな想いが後から後から溢れて、の頬を伝う。
暫くそうして、は声も漏らさず涙だけを流し続けた。

「取り乱しまして、申し訳ありません」
漸く落着きを取り戻し、は宇賀谷と芦屋に一礼する。
「いいのよ。よく持ちこたえましたね」
宇賀谷は穏やかな表情のまま、に言う。それにまた礼を返し、話を切り出した。
「それで、私をお呼びになった要件はなんでしょうか」
「この度、鬼切丸を護るためにこの芦屋の力を借りることとなりました」
宇賀谷の言葉には少し置いて首を傾げる。
「…典薬寮の力を借りる、と解釈しても?」
「その通りよ」
「何か問題が?」
もっともなの問いに芦屋が答える。
「本来この地は不干渉地帯なんだよ。鬼切丸は古来より玉依姫にしか扱えないからね。しかし不測の事態が起きた」
「…ロゴス」
ご名答、と芦屋が小さく拍手を返す。はそれでも首を傾げた。
「それと私と、どんな関係が?」
「当代玉依姫はともかく、守護者の中には善しと思わない者も出ると思うんだ。それを君が抑えて欲しい」
「私が?!無理です、私は玉依姫でもなんでもないし、大蛇さんなんかが反対したらそれこそお手上げです」
がぶんぶんと首を振ると、芦屋はまたにやりと笑って見せた。
「無理じゃあないさ、君もある意味では玉依姫じゃないか。しかも当代の姫よりよっぽど力のある」
「そういうことから忠誠が生まれるわけじゃありません。私の言うことを聞いてくれる人なんて、あの人たちの中にはいませんよ」
芦屋を睨みつけるように見る。しかし芦屋は不敵な笑みを崩してはいなかった。
「いるんじゃないかな、一人。彼の暴走だけは、なんとしても止めてもらいたいんだよ」
芦屋はそう言ってポケットから煎餅を取り出し、いつかのように一齧りする。
「わからないならはっきり言おう。鴉取真弘に無茶をさせないでくれと頼んでるんだ」
真弘の名が出て、の瞳が微かに揺れた。
朝も一言も口をきかないまま、真弘はいつの間にか出て行ってしまった。
「真弘を…どうして、ですか」
ひとつ大きく息を吸って、口を開く。
そもそも宇賀谷に会いたいと頼んだのは、真弘のことを聞くためだった。
昨日の夜考えたことは、推測でしかない。
当たっていようと外れていようと、真実を知りたかった。
それが今、わかるかもしれない。の鼓動は自然と速くなった。
「…ヤタガラス、妖孤、大蛇。三柱のカミを、知っているわね」
宇賀谷の問いに、は頷く。自分たちの村の『三魂』も、それらのカミの力から生まれたものだった。
「鬼を封印した際に、妖孤と大蛇は命を落とし、ヤタガラスだけが生き残った。生き残ってしまったことを悔いたヤタガラスは、玉依姫に誓いを立てたんだよ」
芦屋が続いて言う。言葉を待つの手は小さく震えていた。
「鬼切丸の封印が再び弱まったときは、自分の命を使って封印を為してくれ、とね」
頭の奥の方で、何かが崩れていく。
予想していたとしても、それはにとって聞きたくはない真実だった。
「真弘は、贄になるってこと…?」
口をついて言葉が漏れる。なんだかこの空間そのものが、現実離れしているようだった。
「そういう、約束なのよ。このまま法具がすべて奪われてしまうようなことが起これば、避けられないわ」
「彼は君に懐いているようだからね。似たような運命を背負わされていたんだ、親近感のようなものがあったんだろう。こう言っちゃ不謹慎だがね」
漸くわかった、真弘が生きろと言った意味が。
自分を護ると言った意味が。
いつも傍にいてくれた、そのわけが。
きっとそう長くはない真弘自身の命に重ねて、あんなに愛おしむ様な眼差しを向けていた。
運命から逃がされ、生かされた自分に、真弘の生きられないこれからを託して。
「私に、真弘が死ぬために生きる手助けをしろって、言うんですか…」
そんなのは酷過ぎる。いくらなんでも、そんなのは。
が拳を握ると、宇賀谷が口を開いた。
「あなたはただ、真弘の傍で、あの子にその時が来るまで、生きる希望を与えてくれればいいのよ」
その冷たい響きに耐えきれなくなり、は部屋を飛び出した。
部屋のすぐ外には美鶴が控えており、その顔には悲しい色が射していた。
「…ごめんね、美鶴さん」
なんとかそれだけ言って、は再び駆け出した。
どこへでもいい、どこかへ行ってしまいたかった。
ここにいることが、真弘の傍にいることが、彼の死に繋がっていくなら。
裸足のまま家を飛び出し、どこへともなくは走り続けた。





「ちょ、っと待ってくれ。そんな話は…話が違うだろう」
「状況というものは、常に流動するのよ真弘。すでに三つの宝具が奪われています。早急に手を打たねばならないわ」
夕方になり、学校から帰ってきた珠紀たちにも、宇賀谷と芦屋から典薬寮の力を借りる旨が伝えられた。
最初に抗議の声をあげたのは、やはり真弘だった。
「だからって、こんなやつらの力を借りることはねぇだろ」
「ババ様、本気なんですか」
拓磨もそれに続いて意見する。
「よりよい方法を取るためには、想定外の相手とも手を組まなければならないこともあるの。決定権は当代玉依姫に委ねます」
「わ、私が?!」
宇賀谷の言葉に、一同の視線が珠紀に注がれる。
急に矛先が自分に向いた珠紀は、何かを必死に思案しているようだった。
芦屋と珠紀が二、三、問答をしているさなか、真弘は違和感に気付く。
がいない…)
宇賀谷は、この地に何ら関係のない、ましてや自らの故郷で辛い運命を背負わされていたすら、この鬼切丸に纏わる因習に組み込もうとしていた。
『力を貸す』と約束までさせておいたを、話を理解できないとはいえこの席に呼ばない理由がない。

出来ることなら巻き込まず、これ以上傷付かせず、ずっと…護ってやりたかったのに。
それすら出来ない自分の運命に、敵の強大さに、巻き込まざるを得ないこの因習の深さに。
真弘は強く、拳を握り締めた。
「わかり、ました…それが最善で、みんなが助かるなら…」
珠紀の声に、真弘は我に返る。
どうやら当代玉依姫は『人間』の介入を認めたらしい。
「いいのか、それで…?」
拓磨が真剣な面持ちで珠紀を見た。
ゆっくりと頷く珠紀に、芦屋が声をかける。
「当代様は寛容なようだ。感謝するよ」
明らかに誰かと比べたような物言いに、真弘は眉を寄せる。
そのまま芦屋を睨みつけていると、宇賀谷が立ち上がるのが視界に入った。
「おばあちゃん、その、さんは…?」
真弘よりも早く口を開いたのは珠紀だった。
どうやら真弘と同じことを考えていたらしく、彼女にも聞いてもらった方がよかったんじゃないかと問うている。
しかしその問いに答えたのは宇賀谷ではなく、芦屋だった。
「彼女には先に話してある。彼女の村のこともあったからね。介入に関しては一応賛同を頂いたよ」
何かを含む様な物言いに、これも真弘より早く拓磨が口を出した。
「介入の他は断られた、と聞こえるが?賛同したって言うなら、同席させた方が有利だったんじゃないのか?」
拓磨の言葉に芦屋は口角を上げると、一瞬だけ、真弘に視線を向けた。
「君はそんなに鋭い子だったっけなぁ?断られたというよりも、返事は聞いてないんだ。どこかへ行ってしまったからね」
にやにやと笑いながら言う芦屋。
その様子に堪りかねた真弘が激しく机を叩いた。
「何をさせようとしてんだ、あいつに」
「そんな恐い顔をしないでくれよ、何かさせようなんて思っちゃいない。ただ、ここにいてくれればいいと言ったんだ」
訳がわからないというように真弘がさらに眉を寄せると、芦屋は気だるそうに顎を擦る。
そして口元は笑んだまま、目に先ほどとは違う鋭さを浮かばせて真弘を見た。
「君のためにね」
珠紀と拓磨は顔を見合わせ、お互い首を傾げると、真弘を見る。
その真弘の顔は、血の気が引いて真っ青になっていた。
「なにを…言ったんだ」
「彼女がここで生きていく上で、今一番大事な役割を教えてあげただけだ」
言葉が途切れると同時に、真弘は机に乗り上げて芦屋に掴みかかった。
「真弘先輩?!」
「先輩、何を!」
珠紀たちの制止も聞かず、真弘は机の上に膝をついたまま、芦屋のよれたスーツの襟元をきつく締め上げる。
「あいつに言ったのか?!俺の…、っ!あいつはどこへ行った!!」
「青いね、君も、彼女も。必要なことだろう?目を背けたくても現実だ。惹かれあうのは自由だがね、本命に投げ出されちゃこっちとしても困るんだよ」
「だからって、あいつに教える必要なんてないだろうが!俺は逃げやしねぇよ!」
「よしなさい、真弘」
宇賀谷の言葉に、呆気に取られていた拓磨が真弘を引き降ろす。
「本当に似てるな、君たちは。なんというか、激情型だ。おじさんとしては心配なんだよ」
乱された襟元を直しながら芦屋がふぅと息を吐く。
拓磨に抱きかかえられたまま動かない真弘は、怒りを通り越して呆然としていた。
珠紀や拓磨が何か言っている気がしたが、彼の耳には何も入らなかった。
ただ、に、自分の役目を知られてしまったという事実だけが、真弘の頭を巡る。
どんな顔をする?
どんなことを言う?
どんな想いで、それを聞いた?
そんなことばかりが頭を回って、気が付けば居間には真弘と拓磨、珠紀の三人が残っていた。
「真弘先輩…大丈夫ですか…?」
珠紀が不安を隠しきれない顔で自分を覗き込んでいる。
「どうしたんすか、急に…」
拓磨が未だに自分を抱えながら、穏やかな声で問いかけてくる。
ぼんやりとした頭にはそれが水の中から聞いているような感覚で。
ただ真弘は彼らの顔を見返すしか出来なかった。
同時に頭ではなく体が激しく自分に叫び続ける。
に、逢いたい』
顔が見たい、声が聞きたい、抱きしめてやりたい、近くで、1ミリも距離のないくらいに。
真弘は微かな、本当に微かな声で「すまない」と呟いて、飛び起き駆け出して行った。




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